<目次>

事業承継における「見えない抵抗」の正体とリテンション戦略
今後の資格継続セミナーのご案内

事業承継における「見えない抵抗」の正体とリテンション戦略

事業承継や企業買収(M&A)の公表後、被買収企業の従業員の一定割合が実際に離職に至ることは、各種調査や実務の現場で繰り返し確認されている事実である。人材確保が困難な局面において、承継直後の離職は、単なる欠員補充の問題ではなく、顧客基盤、現場運営、収益力に直結する深刻な経営リスクである。実際、被買収企業の従業員の4割以上がM&Aの発表を受けて転職を検討したとの調査や1年未満・3年未満での離職発生を示すデータもあり、人材流出リスクは想定以上に大きい。
 
前提として、日本の労働市場は構造的な人手不足局面にある。この環境下では、中堅人材1名の離職であっても、採用・教育経費に加え、生産性ギャップ、顧客流出、追加のリテンション施策費用等を通じて、組織に大きな複合的損失をもたらし得る。承継時の離職リスクは、賃金の穴埋めでは済まない、関係資本・業務知識の毀損を伴う問題として捉えるべきである。
 
とりわけ見落とされやすいのは、離職が賃金や処遇の変更のみを原因として生じるのではなく、後継者の登場に伴う現場の心理的反応、すなわち「見えない抵抗」によって増幅される点である。後継者が新たな方針や評価運用を導入しようとする際、情報の非対称性ゆえに、現場の従業員は「自分が今後どう評価されるのか分からない」「この会社で働き続けたら将来どうなるのか見えない」という根源的な不安を抱く。この不安は、会議で発言しない、質問が減る、従来のやり方に固執する、ノウハウを抱え込むといった行動として表出する。これらは現状維持バイアス、及びプロスペクト理論における損失回避性として整理し得る防衛反応である。
 
この「見えない抵抗」を緩和し、心理的安全性を高めるために有効なのが、承継後1~2年を見据えたオンボーディングである。ここでいうオンボーディングとは、既存従業員を含め、「この後継者の下で、どのような役割を果たし、どのように成長していくのか」、すなわち働き続ける意味を再定義していくプロセスである。承継局面では、情報開示、役割の再定義、ロードマップの提示を通じて、未知への恐怖を緩和することが最優先となる。
 
リテンション施策を設計する際には、フレデリック・ハーズバーグの二要因理論が示す通り、賃金や労働条件等の衛生要因を整えるだけでは積極的な定着は生まれない。承認、達成感、仕事・責任、成長といった動機付け要因(非金銭的報酬)をいかに意図的に組み込むかが承継期の組織安定化の中核となる。
 
一方、実務上陥りやすい誤りは、承継初期から完成度の高い人事制度を一気に導入しようとすることである。過渡期において優先すべきは、制度の精緻化それ自体ではなく、評価を考課ではなく育成面談として運用し、評価という型を借りて対話とフィードバックのサイクルを回すことである。そして、実際に使用するだろう評価表は結論を下す書類ではなく、あくまで対話を生む口実であり、従業員が「自分は何者で、何を期待されているのか」を言語化するための道具として位置づけるべきである。
 
その際、結果のみならずプロセスを承認するフィードバックが有効である。具体的には、①何ができて、何が素晴らしかったのか、②何ができず、その原因は何だったのか、③次にできるようになるには何が必要で、どのように行動すべきか、④被評価者の成長のために評価者はどのような支援ができるのか、以上の4点を軸に対話を行う。相手を認める、尊重する、褒める、感謝するといったポジティブストロークを基調とし、具体的事実に即して言語化することで、従業員は「ここで働く意味」を認識しやすくなる。
 
更に、対話の精度を高めるためには、相手のソーシャルスタイル(エミアブル、エクスプレッシブ、アナリティカル、ドライビング)に応じたアプローチが求められる。相手のタイプに応じて、感謝の伝え方、賞賛の示し方、基準提示の明確さ、権限委譲の比重を調整し、自らの価値基準に固執しない配慮を行うことで、同じ承認でも受け止められ方は大きく変わる。承継時の対話においては、何を伝えるかと同等にどう伝えるかが重要である。
 
事業承継支援に携わる事業承継士、税理士、弁護士、中小企業診断士、社会保険労務士等の専門家に求められる役割は、制度や法務の整備に留まらない。後継者が現場との対話を継続し、単なる復旧ではなく組織の復興に向けた運用を回せる状態をつくる支援まで射程に入れる必要がある。承継初期の最大の防御策は、完璧な制度の導入ではなく、腹を割った誠実、かつ真摯な評価と対話の習慣化にあると、私は考えている

【執筆者紹介】

佐伯 悠氏(さえき ゆう)
株式会社佐伯 取締役
(事業承継士・社会保険労務士・中小企業診断士・経済学修士)
 
【経歴・実績等】
商社、組織人事コンサルティング企業、製造業人事を経て独立。人事制度、採用・育成・リテンション、後継者育成を含む事業承継支援を専門とする。共著に『ケースに学ぶ 青山企業のマーケティング戦略』『企業経営と地域活性化 愛媛県西条市の事例から』等。

当記事は、2026年2月24日に資格継続セミナーで講演した内容を要約して掲載しております。
今後も資格継続セミナーを下記の通り開催致しますので、ぜひご参加ください。

今後の資格継続セミナーのご案内

資格継続セミナーは、事業承継支援者向けのスキルアップセミナーです。

※画像をクリックすると申込ページに移動します。


【2026年3月】

開催日 :2026年3月31日(火)18時30分~20時30分
講師  :谷 松生 氏(たに まつお)
テーマ :事業承継を動かす民事信託 ~オーナーの想いをつなぐ~
内容  :待ったなしの「経営承継」と「資産承継」。「まだ元気だから」と先延ばしにしていませんか?相続争い、経営者の認知症、後継者不在など、「後悔」に繋がるリスクはすぐそこまで迫っています。
本講義では、将来への不安や権限を譲ることへの戸惑いから事業承継に踏み出せない企業オーナーに向け、民事信託で株式を『資産』と『経営』に切り離して考えることで、新たな一歩を踏み出すきっかけを、事例をまじえて解説します。
参加費 :2,000円(税込)
事業承継士または事業承継プランナー以外は4,000円(税込)
詳細  :https://www.jigyousyoukei.co.jp/2026/01/54638/